トランクルームについての意見
家は、一代ももたない消費財になってしまっている。
家は、古くなったら建て替えるものなのだろうか。
家が古くなるから建て替えるわけではない気がする。
建て替えるもの、という常識があるから家が古くなるのではなかろうか。
「どうせ建て替えるのだから」と、せいぜい二十年しかもたない粗悪な家が建てられるようになっている。
いずれ朽ちるかもしれないけれど、それまではずっとたいせつに使いつづけよう、と思って家を建てるならば、
五十年、百年、いや、寺院建築のように千年までも家はいのちを保つはず。
古くなることと、使いものにならなくなることとは、別問題だ。
そのことを、もっときちんと意識したほうがよいのではないか。
ビデオデッキだって、カメラだって、古くなると最新の技術からは遠ざかるかもしれないけれど、必要な機能がついているならばそれでじゅうぶんなはず。
手になじんで、日常的に使いやすいもののほうが、新しい機能がいっぱいついていて使いにくいものよりも、ずっといいではないか。
「いずれ、建て替えるつもり」「いずれ、買い替えるつもり」で使っているものにたいして、ほんとうに愛情を持てるものだろうか。
一時しのぎで使っているなら。
家は傷み放題、汚れ放題になりかねない。
そうやって、つねに使い捨てていく人たちには、住まいを持つ資格はない。
私たちの暮らしには、この数十年間、つねに新しいものが登場しつづけてきた。
新しいものを取り入れるのが、生活だった。
家でさえも、新しいものをどんどんつくりつづけ、新しいところに住みつづけてきた。
でも、新しいものしかない暮らしは、ほんとうは貧しいことなのではないか。
「新しい、古い」という軸、「進歩、停滞」という軸でものごとを判断するのは、過去の価値観にしてもいいと思う。
「使いにくい、使いやすい」「住みごこちが悪い、住みごこちがいい」といった軸で判断して、よいものを維持していくようになれないだろうか。
とはいえ、そんなことを日頃から考えている私でも、やはり「新しいもの」への誘惑に負けることがある。
わが家の車は中古車を買ったのだけれど、十年もたっていたので塗装が傷んでいた。
乗りごこちや操作性がよく、夫婦ともに相性のよい車だったので、多少お金がかかっても全部塗りなおそうと計画した。
そのとき、「色はどうしますか。
せっかくだから、違う色にしたらどうですか」と勧められたのである。
そう言われたら、「せっかくだから」と、つい、違う色を選んでしまうではないか。
けれども、同系統で少しだけ違う新しい色は、やはり「違う」のであった。
前の色が気に入っていたのだから、同じ色にすればよかったものを。
新しい色が気に入らないわけではないが、違う車になったようで、ちょっとさびしい思いをしたのである。
この「せっかくだから」の気の迷いは、よほど意志堅固な人にでも訪れるものではなかろうか。
そういえば、イギリス紳士の究極のおしゃれは、上等なシャツを同じデザインで何着もつくることだと読んだことがある。
毎日着替えているのに、いつも同じ格好でいる。
着替えていることを、ことさらにアピールしない。
「でも、それは、ちょっといやらしいなあ」と鼻につく気もするが、まあ、自然に「同じ状態を維持する」ことができるようになったら身だしなみも一流、ということなのだろう。
そこまでやる必要はなくても、変化よりも常態を維持することに情熱を傾けるのは悪くないと思う。
その情熱を生むのは、「いまの状態が、いちばんここちよい」という確信ではないだろうか。
もう少し言えば、努力してここちよい状態をつくりあげたからこそ、「これでいい」という確信を持てるものなのだろう。
日本の暮らしに、誰もが土台として共有できるものが失われたのは、いつからなのか。
ふつうに暮らす人ならば、だいたいこんな家に暮らしているもの、だいたいこんな道具を使っているもの。
お金持ちや特殊な職業の人はいざしらず、だいたいみんなそういうものなんだ。
そんな「型」のようなものが、いま、どこを探しても見あたらない。
だからなのか、安心して暮らせない。
こんな家でいいのか、こんな暮らしでいいのか、家事はこんなふうでいいのか。
もっと個性的に暮らさなきゃいけないのじゃないか。
「私」は、こんなことをしていていいのだろうか。
心配になる。
多くの人たちが農村で、ゆるやかな進歩の波とともに生活を変化させながら、だいたいみんなが同じような暮らしをしていたのは、戦前までだろう。
戦後になって、日本らしさを捨てて、アメリカの文化を取り入れようとみんながやっきになった。
農村をたくさんの人が離れて、経済成長のためのお金を生みだす都市で暮らすようになった。
戦後の復興から経済成長という激変の時代を生きるうちに、誰もが、新しい電化製品をほしがったり、ダイニングキッチンやリビングルーム、
子ども部屋がある洋風の家に住みたがったりして、必死になって「いま、目の前にある新しいもの」を取り入れるのが「暮らし」になっていた。
「だいたいみんな、こんなふうにして暮らしているもの」と、安心していられる暮らし方が失われたために、自分が手に入れたものにすがって安心するしかなくなったのかもしれない。
でも、そんなものが、ほんとうに「暮らし」なのか。
一から十までオリジナルである必要はない暮らしとは、自分のいのちを養っていくこと。
おいしいと思うものを食べ、気持ちよく眠り、たいせつな人と語りあい、いごこちのいい場所でくつろぎ……。
そういう行為を、かけがえのないものとしていつくしむこと。
そういう行為をきちんとできるように、住まいを整え、道具を使いこなしていくこと。
そのためにこそ、家や家事の道具には、ゆるぎなく安心して身をゆだねられるような「型」があるべきなのだと思う。
その「型」とは、一から十まで個々人の暮らしを拘束するようなものではない。
七くらいまでの基本的な部分なのだ。
一から三くらいまでは、「家のなかにお風呂とトイレはある」「誰もが清潔に、快適に過ごせる」「冷蔵庫と掃除機と洗濯機とテレビはある」といった本当に基本的なところだ。
その時代時代で違ってくるだろうけれど、まあ「あたりまえ」のこと、という部分だ。
この「あたりまえ」の部分が、いまは三までしかないように見える。
四からはいきなり個々人が考え、オリジナルに築かなければならない。
これでは、七、八あたりまで築くのがせいいっぱい。
「どういう間取りにするか」「個室はどう考えるか」「庭はどうつくるか」「外壁の色や素材はどうするか」「どういうスタイルの外観にするか」「床の素材はどうするか」「電化製品はどの程度、新しいものを取り入れるべきか」「食事はどんなものを食べるか。
料理するか、惣菜を買うか、外食するか」……などなど、選ぶべきことがたくさんありすぎて、疲れはててしまう。
そして、いろいろ選ばなければならないから、なにが自分らしいのかもわからなくなってしませめて、六くらいまでは「このくらいが、あたりまえでしょう」と思える「型」があるといい。
「だいたい、間取りはこう考えるもの」「だいたい、個室はこう考えるもの」「外観の選択肢はこのくらいの範囲内」といった感覚を誰もが持っていれば、そこまでは、
それほど考えこむ必要はない。
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